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上杉謙信の天正6年(1578年)3月死去に伴い、越後では跡目をめぐって、謙信の二人の養子、景勝、景虎の争い、すなわち、御館(おたて)の乱が起こった。 与板城主・直江景綱の後を継いだ 信綱は、景勝方で、旗本大将として活躍した。この内乱は天正8年に景勝方の勝利で終わった。 直江信綱は、御館の乱の恩賞問題で斬り合いの仲裁に入り、運悪く斬殺されてしまった。 信綱には子供がいなかったので、直江の名跡を残すため天正9年(1581年)上田衆(六日町)の樋口
兼豊の子・与六を、入り婿として迎えた。これが直江兼続である。 直江兼続は、景勝の母に才能を認められ、小さい頃から景勝に仕え、与板城主となってからは、景勝の
手足となって、越後の再統一と施政に尽力した。
反景勝勢力を長年にわたり平定し、佐渡から出羽庄内(山形)までも支配した。 直江兼続の直属の家臣は与板衆である。「代々与板の者」とか「直江一家の侍」とか「直江家老の輩」
と呼ばれ、その数122名。兼続が上杉景勝の家老として、検地惣奉行・蔵入地奉行・知行宛奉行・佐渡
代官・出羽庄内仕置などの要職を務めるには、与板衆に強い権限を与え、越後の治安・統一・施政に
あたったのである。 もちろん、与板の城下町づくりにも力を入れた。城下は人口も増え、開拓事業が進み、鉄砲製造などの手工業や、市の開設など商業も発展し、城下町の形態は次第に整えられていった。 直江山城守兼続の居城・与板城は通称「城山」と呼ばれ、町の南部丘陵地にあり、本丸は107メートル
の山頂に、二の丸・三の丸から千人溜などの主な郭が南北に一列に配され、全山すべて城郭の形をなし、
東方を流れる諸川を内堀に、信濃川を外堀にし、眼下に中越を一望に収める事の出来る豪壮な山城である。
この与板城跡は、県および町の文化財に指定されている。 上り口より、約15分で頂上に到着する。途中には、兼続の奥方・お船さんにまつわる「おせん清水」があり、どこから湧いて出るのか、水の流れは絶えない。 |